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マウントという言葉はいつからできたのだろう

 

この前までインスタグラムで、いわゆる映え写真(他撮りの自撮り)を載せるある一定数の人たちを見ては、「もういいから、、」と勝手に負けた気分(?)になっていた。

 

羨ましいという気持ちもどこかにあったのかもしれない

 

でも本当に最近、地元の連れの友だち(m)からインスタグラムのフォローリクエストが来たので許可したところ、ストーリーズが荒れに荒れまくっていた。ので、私はいつからか不幸アピールをするこの人に対して「もう親しい友人に入れないでくれよ…」という気持ちになり、マウントを取っているという人たちの投稿はもはや私たちに幸せを分けてくれているんだ…!と思えるほどになった。

 

そこまで私に思わせたストーリーズの内容は、子どもを二人連れて再婚した相手がゴミだった。とか、スナックでバイトしているけど気になるお客さんができた、連絡返ってこない。とか

 

それを見てなんて哀れなのだろうかと(m)のことを可哀想な人認定してしまった。

 

 

(m)について

小学生の時に親離婚。すぐに親は再婚し種違いの妹ができる。

中学の時に父親が不倫し蒸発。中3の時に私を含む周囲に「親が離婚してたら子どもも離婚する。」「片親の子どもはろくな人生歩まないよね~」などつらつらと不幸になる前提で話してきたので当時の私からそう思ったら人生終わりだらと心の底から軽蔑される。母親は働かず、高校生になった(m)にアルバイト代を無心する。大学進学しようとするも母親が戸籍をきちんとしていなかった(?)ので奨学金を借りれず、1年浪人して大学進学を目指すも、当時の彼との間に子どもを授かり結婚する。----ここから離婚してシングルマザーになる。など色々あるがありすぎるので省略--------

 

(m)については地元の友だちがよく話題に出すので、その時々の近況は知っていた。「あいつは頑張ってるよ」と友だちは言っていたが、なんとも同情できなかった。

それは中3の時に半ば人生諦めたって言う言葉、周りの片親たちを巻き込んだ発言があったからだと思う。

私の親も片親だから、そんな言い方されたら私の人生ももう終わってるってこと?と不満だった。第一、私は人生諦めていなかった。とは言い切れないけれど、周りに同情されたいとか、可哀想を演じたことはない(ブログは除く)だし、現に片親でも私は自分が今幸せだと思っている。可哀想な人生なんて送っていない。

なんていうか、自業自得なのではないかと思う。こんなことを思うってなんて私は冷たいのだろうか。でも、頑張っていたかもしれないけれど、子どもがいるのに彼氏と同棲したいっていろんなところを転々としたり、スナックでできた気になる男と飲みに出歩いたり、子どもをおろしたり、言っていることとやっていることが違いすぎたり、、とにかく片親の子どもとして一緒にはされたくない。

 

何が言いたいか、それは、「インスタグラムのフォローやめてもいいですか?不幸が移りそうです。」←めちゃくちゃ酷い人

 

おわり